地震保険コラム第2話|地震保険を検討中の方へ【SBIリスタ少額短期保険】

地震保険コラム「地震で貯金0?」

第2話 大地震で家がなくなったら

30万人が避難した。
それでは、もう少し具体的に、「大地震で家がなくなったときのこと」を考えていきたいと思います。

1995年1月17日の阪神淡路大震災を思い出してみましょう。

なぎ倒された高速道路。
横倒しになった鉄筋コンクリートのビル。
押し潰されて2階がなくなった駅ビル。
火の勢いが止まらない住宅街。
倒壊した住宅の瓦礫でふさがれた道路。
閉鎖された工場や商店街。
被災者で埋め尽くされた小学校の体育館。

どれも実際にあった光景です。

全焼も含めて全壊になった住家の数は、実に10万棟を超えました。
全壊だけで10万棟です。半壊も含めると24万棟を超えます。

それだけ多くの方々が実際に住む家を失うという悲劇にみまわれたのです。
全壊となった住家の1世帯平均を2人として単純に計算しても20万人以上ですが、避難所に避難された方の総数は30万人、半壊以上の被災世帯数は46万世帯と公表されています。

これらの数値ひとつとっても、「自分だけは大丈夫」という人間のごく自然な考え方が現実とは乖離していることがお分かりいただけるのではないでしょうか?

阪神淡路大震災で不運にも命を落とされた方々は6,000人を超えました。

残された遺族の方々の悲しみは、とても筆舌には尽くせません。
大切な家族を失い、さらに、家族の大切な想い出がつまった家までも奪われた方々の悲しみにいたっては、計り知れないものがあったと思います。

ところが、悲しみにくれる被災者の方々に対して、避難所での生活は、さらに追い討ちをかけるような辛い生活を強いたのです。

避難所となった体育館や公民館では、避難された方々で足の踏み場もない状態になりました。

当時、「1世帯で毛布1枚分のスペース」と報道されていたことを覚えていらっしゃる方がいるかも知れませんね。

火災防止のためにストーブなどの使用も禁止され、冷たい隙間風の吹き抜ける階段の踊り場で、毛布1枚で寝泊りしている被災者の姿もありました。

あまり報道はされていませんが、このようなストレスと疲労の混乱の中で、金品の強奪や女性が暴行されるというような悲しい事件もあったと聞いています。

海外の貧困層の多い地域や政情の不安定な地域で災害が発生したときに、混乱に乗じた犯罪が横行することはよく報道されていますが、日本でも暴動というほどの規模にはならないまでも、卑劣な犯罪が発生することがあったようです。

プライバシーもなく、水が出ずに汚物でトイレがあふれかえるような劣悪な生活環境。
そんな避難所から仮設住宅への入居が始まったのは、震災から約1ヵ月後の2月15日でした。

2011年3月11日の東日本大震災では、どうだったでしょうか?

岩手、宮城、福島の東北3県のみならず、青森や北関東など、広範囲にわたり強い揺れを観測した巨大地震であり、原発事故も発生したことから、ピーク時の避難者数は、阪神淡路大震災の30万人を超える40万人超でした。

ただ、住宅建物の全壊(全焼、流失を含む)戸数は、約11万戸と発表されており(6月1日時点の警察庁発表)、地震の規模から考えると、被害戸数としては若干少ない数値になっています。

人口密度が少ない地域であったこと、市街地での火災被害が発生しなかったこと、住宅建物の耐震性が高まっていることなどが影響しているのかも知れません。

いずれにしても40万人超というまったく他人事ではない数の方々が避難所での辛い生活を経験されました。

「避難所での生活よりもまだマシ」ということで、津波で住居の1階部分を完全に流された被災者が、電気も水道も通じていない2階部分で生活しているという話も聞いています。

また、旦那様は避難所に残り、奥様は小さい子どもを抱えながら親戚や知人宅を転々とされ、家族がバラバラになっているご家族もいらっしゃいました。

プライバシーのない避難所での生活の辛さは、阪神淡路大震災のときとあまり変わっていないようです。

東日本大震災では、避難所が広範囲に数多く設置されたことから、各地で必要とされる食料や衣料、医薬品などの物資の情報管理や配給方法のコントロールが行き届かず、生きていくために必要な物資が足りない深刻な事態も発生しました。

物資不足の問題は情報網と交通手段の復旧とともに解消されましたが、次第に仮設住宅の建設の遅れが指摘されるようになりました。

仮設住宅の建設の遅れは「場所が見つからない」ということが理由になっているようですが、
じつは、阪神淡路大震災のときにも同じ問題が発生しており、過去の教訓が活かされていない点は残念な気がします。

仮設住宅に入るための厳しい条件
阪神淡路大震災では、仮設住宅の第1次募集2689戸に対して、応募総数は5万9449世帯もあり、倍率は実に22倍以上になりました。

言い換えれば、ほとんどの方々(22世帯中21世帯)が、その後も数ヶ月間、避難所での生活を余儀なくされたということです。

震災から半年後にようやく4万戸の仮説住宅が完成し、1年経過したところで、約4万6300世帯(約9万人)が仮設住宅に入居されました。

プレハブの仮設住宅は、災害救助法という法律に基づいて、8坪の2Kタイプが用意され、プライバシーのない避難所よりはまだマシでしたが、「狭い」「隣の声がつつぬけ」「隙間風がひどい」「街灯がなくて真っ暗」「交通の便が悪い」など、すぐに苦情が噴出したそうです。

震災から数週間もたつと、徐々に生活環境への欲求が高くなり、不満も大きくなるのが人間の心理なのかも知れません。

10万棟以上の住家が全壊したのに対して、仮設住宅に入居したのが4万6300世帯でしたので、それ以外の方々は、何らかの経済的負担とともに、「家を再建する」「賃貸を借りる」、「親戚の家に居候する」など、別の方法で住居を確保されたことになります。

東日本大震災でも、政府や自治体が懸命に仮設住宅の建設に取り組んでいますが、立地の悪さや設備の悪さについて、すでに多くの不満が言われていますので、「家を再建する」「賃貸を借りる」などの方法で住居を確保される被災者の方々が多くなりそうです。

その他の公的支援
阪神淡路大震災では、期間限定で建設された応急の仮設住宅の次に、復興住宅という形で、公営の賃貸住宅が用意されました。
第1次の募集が開始されたのは震災から約1年半後、入居開始はそれからさらに数ヶ月後のことです。

復興住宅の家賃は、所得制限などの一定の条件を充たせば、相場の3分の1程度ですむ魅力的なものでしたが、家を失った方々があまりにも多かったので、抽選に当たることは非常に難しく、募集当初の倍率は神戸市の場合で8倍以上(8世帯中7世帯は落選)という難関でした。

大震災という大規模災害発生の後は、最低限の住環境を確保することがいかに難しいかということがお分かりいただけるのではないでしょうか。

「二重ローン」とは?
東日本大震災の被災者が抱える問題として、新聞やテレビなどで盛んに「二重ローン」という言葉が使われていますが、もともと、この「二重ローン」という言葉は、阪神淡路大震災で使われるようになりました。

「二重ローン」とは、壊れてしまった家の住宅ローンの返済と新しく家を建てるために借りた住宅ローンの返済の「二重の債務」のことをいいます。

阪神淡路大震災では、1万人以上の方々がこの二重ローンを余儀なくされたといわれています。
長期のローンですので、震災から15年が経過した今でも、その負担が続いている方々がいらっしゃいます。正確な数値はまだわかりませんが、東日本大震災でも、相当数の被災者の方々がこの二重ローンを余儀なくされると予想されており、債務免除などその対策が政府を中心に議論されています。

「どうしてそんな無理をしてまでローンを・・・」と思われるかも知れませんね。

被災者の方々が無理をしてでもローンを組んだのは、それだけ住環境の確保に必死だったからではないでしょうか。

「避難所または仮設住宅での生活の苦しさ、ストレスから一刻も早く抜け出したい」という強い気持ちの表れと考えることができるのかも知れません。

もちろん、国からも住宅を失った被災者の方々には、公営の賃貸住宅を安く提供するなどの支援がありました。
ただ、数が圧倒的に不足していたため、その恩恵にあずかれる被災者は非常に少なく、高齢者や所得の少ない方々が優先されることになりました。
そのため、住宅ローンを抱えている働き盛り世代の被災者の方々が公営の賃貸住宅に入るのは難しい状況が続きました。

そんな状況の中で、家を再建するための費用として直接的に現金の支給を求める被災者の声が次第に大きくなっていったのです。

次回は、地震で家を失った人々に突きつけられた厳しい現実と、震災後の政府の対応について、詳しく見ていこうと思います。



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